七夕になると思い出す辛い記憶

パキスタンで旅行会社と民宿を始めて、一等最初のお客さま5人。その5人がセラック(氷の塔)崩壊で墜落・行方不明との連絡を受けたのが40年前の七夕の夜だ。ねっとり身体にまとわりつく重くて「熱い」空気の中、雲間に見える星を捜していた時に受けた連絡。亡くなった3人の名前と顔、略歴は40年経った今も記憶から薄れていない。一人息子で母子家庭だったNさん、残された母親はどんなに嘆き悲しんだことだろう・・リーダーでしっかり者のTさん、マイペースに見えるSさんと。事故は亡くなった人も、生き残った人にも辛い。そして残された家族たちも・・ 
ここ10数年、パキスタンでは(日本人の)山岳事故が僅少になった。だが一昔前まで山での事故は多かった。正式に数えたことはないが、山へ行ったまま帰って来られなかったお客さまや友人はこの40年間で40人に近いのではないかしら。「登れなくても良いのよ、生きていれば次の機会があるからね」としつこく言い続けて送り出す登山者たち。
30~40年も昔の登山隊は日本から何トンもの荷物を持ち込み、大掛かりで費用も膨大。殆どの登山隊には新聞社やTV局、大学後援会などのスポンサーが付いていた。スポンサーのためにも何としても、少々の無理を押しても頂上へとの思いが強く、それが山岳事故に繋がっていた原因の一つだとオバハンは想っている。  
個人で登山が出来るようになったのは、航空券代が安く、ドル=円相場が変わって、気楽に海外へ出られるようになってからではなかったか。個人的な楽しみでの登山、ダメならまた来年があるという余裕が山岳事故を減らし、近年は自前で登山に来るのが普通になっている、結構なことだ。    
だが、パキスタンで商売を始めて40年、コロナの影響で今夏は初の登山隊ナシ、トレッキング客もない。昨夏までは細々とでも登山隊もあったのに・・ 山岳事故に対して24時間、神経を張りつめていなくてはならない夏、辛いものがあると思っていたが、登山隊サマのお陰でボケ防止になっていたと改めて思う。